あおのユートピア

熱しやすく冷めやすいコスメフリーク大学院生のブログ

私がフェミニストになった理由

 

 

 

 

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みなさんこんにちは~☁いかがお過ごしでしょうか。今日もとても寒いですね。警報が出ているところもあるようなので風邪にはお気を付けください。私の周辺でもインフルエンザなど流行しているようです。病は気からと言いますが...しんどい時は休むのが一番だしいつも身体の声を聞いて過ごしていきたいです。私は卒業研究の審査会が終わってから燃え尽き症候群のように...バーンアウトしてしまったようです。いま何もしたくない~~!!!!すっかり気が抜けてしまいました。こんな時もあるね。  
 
 
 
さて、私は自分がフェミニストであると思っている。でも、まだフェミニズムについて語れる知識量も経験も足りないというのが事実で、いまでも勉強中だ。
 
フェミニスト(英:Feminist)は、社会における伝統的な女性概念による束縛からの解放を唱え、女権獲得・女権拡張・男女同権を目指すフェミニズムを主張する人の事。日本語では、女性解放論者、女権拡張論者、女権論者、婦人解放論者と称されることもある。

フェミニスト - Wikipedia

フェミニズム(英:feminism)又は女性主義(じょせいしゅぎ)とは、性差別を廃止し、抑圧されていた女性の権利を拡張しようとする思想・運動、性差別に反対し女性の解放を主張する思想・運動などの総称。男女同権運動との関わりが深い。

フェミニズム - Wikipedia

 
Wikipediaにはこんな風に定義づけされているが、日本語で言うと「女性解放論者」とか「女権拡張論者」など。なんだか堅苦しく、フェミニストジェンダーの平等を求めている・願っている人々だとは捉えづらいのは当然のことのようにも感じられる。この言葉だけ聞くと、まるでフェミニストが「男性嫌悪」する人々や「女性の権利だけを求める男尊女卑の逆バージョン」を訴える人のように感じてしまう。
 
 
 
 
でも、フェミニストってそんな「拡張論者」みたいな捉え方ではなくて、女性だけが名乗れるものでもない。女も男も、みんなフェミニストになれる。「でなきゃ」と思う。なぜなら、女性は「女らしさ」を社会や文化によって求められ、「女だから料理が出来なければ」「女だからおしとやかに」とか「女なのに字が汚いなんて」とか。そういうジェンダーのステレオタイプ的な女性性は、女だけに課されるものではないからだ。
男性もまた、「男らしさ」を社会に求められている。「男だからお金を稼がなくては」「男だから筋肉をつけてスポーツもできなければ」「男だから男らしく、勇敢でなければならない、たくましくなければ」というジェンダーのステレオタイプ的な抑圧の中で生きている。そんな時代は終わらせなければいけないと思う。身体的、行動的、心理的に様々な性差があることは変えようもない事実だけれど、同じ人間であるのに「らしさ」という個人的な思い込みを信念として求めてもいいものか。これは偏見だ。偏見や差別はいあってはならないと小さい時から教えられてきたはずの私たちが、こんな当たり前に性別の偏見の中でもがかなくてはならないのだろうか。
 
決してこれは「あなたもフェミニストになれ」と強制しているわけではない。フェミニストというものを異端なものとして感じるのではなくて、今一度フェミニストのことを改めて考えてほしい。本質を見直し、捉えなおしてほしい。
 
これはあくまでも私が考えたことで、フェミニストの人々が皆この考えを持っているわけではないことを前提で聞いてほしい。
 
ハリー・ポッターで有名なあのエマワトソンは、自身のことをフェミニストだと言っており、国連で「He For She」という男女平等を目指すキャンペーンを立ち上げて活動している。私もこのキャンペーン、1613277人目の会員だ。
 
そんなエマが、2014年9月20日に国連本部でこのキャンペーンをふまえスピーチを行った。これがそのスピーチである。聞いたことのない人は、聞いてみてほしい。
 
文字起こしされたものは以下に。

www.buzzfeed.com

 

私はこのスピーチを去年の今頃、約一年半前に初めて聞いた。恥ずかしながら大学3年になるまで「フェミニズム」という言葉を聞いたことはあったが意味や歴史などを理解していなかった。

しかし、一年半前にこのスピーチを聞いて私は衝撃を受けた。その後さまざまな書籍や論文を読んでいく中で、私は自身がフェミニストであると自覚した。

正直「私はフェミニストなのかもしれない」と感じた時、動揺し困惑した。何とも言えない感覚であった。怖くもあった。

当時一番最初に読んだ本は、堀越英美の「女の子は本当にピンクが好きなのか」というもの。

 

 
この本に出会ったのは、 VOGUEgirlのサイトを見ていた時である。フェミニズムについて調べていて、何か関連する書籍はないか?と探していたところこのページを見つけた。
 
この本のタイトルに惹かれた。このタイトルを見た瞬間、幼稚園生のころ憑りつかれたようにピンクばかりを着たがり、シンデレラやアリエルに憧れていた幼い頃の私と、ピンクを嫌い、緑や青、黒などばかり好んでいた中学生のころの私が頭の中に浮かんでいた。
「ピンクは女の子の色だよね」そんな言葉を何度聞いてきたのだろう。幼い頃の私は、ピンク色でいっぱいのバービー人形やピンクこそが女の子らしい色だと認識していた。いつしかそれが当たり前のように、「ふつう」のこととして私の自己の中に確立した。
幼稚園ではトイレのスリッパの色が、女の子はピンクで男の子は青。小学校で使うランドセルは、女の子は赤で男の子は青もしくは黒だった。
だから黒を持っている女の子を見ると、いたって純粋に「どうして女の子なのに黒なんだろう?」と疑問に思っていた。でもそれは思い込みであり、ジェンダーのステレオタイプ的な信念であったのだ。
気がつかなかった。
それが「ふつう」で、「あたりまえ」だったから。
 
そんな隠れたカリキュラムがいっぱいの学校生活の中で、知らぬうちに意識せずとも自己の中に「ジェンダーステレオタイプ」が形成されて強化されていた。
 
 
自信がフェミニストであると自覚した一年半前、私は過去のいろいろを振り返り時には後悔もした。反省をし、私の発言を見直した。もしかすると傷つけたかもしれぬ相手に心の中で「ごめんね」と言った。
 
数年前、テレビなど様々なメディアで「ジェンダーレス男子」という人々が話題になった。「女子力男子」などと書かれたテロップと共に「男子もメイクする時代」などそういう言葉を多く見聞きした。
当時の私は、「なぜ男なのにこんなに細いんだろう」とか「男がメイクするなんて」と感じていた。本当に無知だった。その感情の背景には、「男性は男らしくあるべきだ」という偏見と信念が隠れていたのである。
しかし、当時私だけではなく友人や家族、ネット上の書き込みにおいても同じようなネガティヴな意見を多く見聞きした。多くの人にとって、その感情は「当たり前」であったからだ。
「男がメイクするなんて気持ち悪い」
「男が化粧水とかスキンケアするなんて」
そんな言葉ばかり目にした。私もそう感じていた。
でも違う。女も男も生物学的な違いはあるけれど、みな同じ人間だ。おなじ人間で、それぞれ「何をするのか」を選択する権利がある。人権も同じでなければならない。
 
だから、「料理をすること」「ネイルを塗ること」「メイクをすること」「編み物ができること」が女性らしさでもなければ、「女子力」でもない。
なぜ「男子力」という言葉はないのだろう?なぜ女医という言葉はあるのにその逆はないのだろう?なぜ男性が虫をこわがると「男らしくない」と言われるのだろう?
 
上述したような世間一般で言われる「女子力」を女性に求める社会からの抑圧に、ストレスを感じる必要などない。負担に感じる必要もない。そんなもの気にしなくていい。
 
自分がなぜメイクをするのか、誰のためにメイクをするのか、どんな服を着るのか、どんな色が好きで、自分は何を好むのか。そんなものは権利として当たり前に私たちひとりひとりにあるものだ。自分で選択をする「権利」がある。他人からどういわれようと、”私”は「これ」が好きだと胸を張って言う権利がある。
 
 
私が過去にアルバイトしていた場所で、私は父よりも年上の男性にセクハラ発言を受けていた。でもその男性は私にだけではなく、同じ職場で働く正社員の女性や上司の女性にもセクハラとも感じる言動をしていた。職場ではそれが「当たり前」になっていたし、当時の私も「いやだ」という感覚さえ忘れて「またか」と感じていた。
その男性は、私と久しぶりに会うと「○○さんちょっと肥えたね」とか「彼氏はいないの?」とか、さりげなく腰や肩に手を置いてきたりした。それ以外にもここで書けないような不適切な言葉もいつも言われていた。
まわりの女性社員にもだ。年配の女性には年齢のことで嫌味や更年期症状だとネタにしたり、お客さんにも身体的なことを言ったりして笑っていた。
それらの女性もまた、「笑って」いた。でもどう考えても不快に感じることであったはずだ。私も同じである。最初に言われた時は動揺したし、傷ついた。でもいつしかセクハラが慢性化していた。受容していた。嫌なのに。
その男性だけではなく、いくつか疑問を持つ場面もあった。そんなの社会に出れば当たり前でしょ、といわれればまだ学生の私は何も言えないが
事務所に上の管理職のような上司が来ると職員さんたちは私に「お茶くみ」をしてと指示する。その時に私より後に入ってきたアルバイトの男子大学生がいてもそうだ。
コーヒーを淹れるように頼まれる時も、女性がする、給湯室にいるのは女性。
コーヒーを淹れて持っていくと「やっぱりお嬢さんが淹れたコーヒーは美味しいね」と言われる。なんだろうこの違和感は。
料理には真心を込めた方がおいしい、きれいな言葉をかけ続けた植物の方がよく育つ、とかそういうことは知っているしあり得るとも思う。
だけど、それらは「性別」によっても変わるのだろうか?
女性が淹れたコーヒーと、男性が淹れたコーヒーの味に違いはあるのか。
私はもうその職場を離れたが、その選択は間違っていなかったと思う。
もうギリギリまで来ていた、やめる理由を聞かれた時「セクハラ」だとは言わなかった。いや、言えなかったのだ。
 
しかし、まだそれが当たり前になって女性にも男性にも同じような権利が与えられる時代は来ていない。
本屋に立ち寄れば、多くの女性向けファッション雑誌が並んでいる。男性向けのファッション雑誌もある。
女性向けファッション雑誌を手に取れば、見えてくる文字は
「男の子ウケ」「女の子ウケ」とか、「こんな子はモテる!」とか。
「女の子にモテるファッション」や「言動」など
なぜだろうか。なんでこんなにも異性性を受け入れすぎて、その信念に順応しようとするのだろう。
読んでいる読者もまた、「モテたい」と思うのだろう。その理由はひとつ。
そう書いてあるのだから、それが当たり前になっているからだ。
そのプレッシャーの中で、自分がその「基準」に当てはまっていないと感じた時人はその差異を強く感じ自身を抑圧する。それは普通ではない。
無意識に抑圧された心は、気分を落ち込ませる。自信をなくさせる。
その「基準」が軸となると、軸とのズレ(差異)を感じるたびにアイデンティティが揺らぐ。
「私はどうしてこうなんだろう」
「私はどうして綺麗じゃないのだろう」
「僕はどうして背が低いのだろう」
「僕はどうしてスポーツができないのだろう」
やがてそのプレッシャーがコンプレックスへと姿を変えて現れる。その繰り返しだ。
 
「自分ウケ」「私ウケ」「俺ウケ」でいいのではないか。
そろそろ解放される時だ。そんな葛藤など、感じる必要はない。
 
『人はひとりひとりちがう 』
『みんなちがってみんないい』
『個性を大切にしよう』
そんな言葉ばかり幼い時から学校で学び、周囲の大人たちに言われてきた。
そんなはずなのに、個性さえも認められないのか。
決まった「基準」の中で生きることが「正しい」ことであるのか。
 
私たちは、「さわやか3組」や「金八先生」で何を見てきたのか。
 
「太っているから」
「一重だから」
「女だから」
「男だから」
そんなものに人権を侵されてたまるものか。
 
 
私を含め、多くの人は一度でも体験したことがあるだろう。
「なんか今日の格好、○○らしくないね」
「え~これ○○が書いたの?○○っぽくないね」
「今日のメイクどうしたの?」
「ちょっと太ったでしょ?」
相手からすると、私へのアドバイスや気づきとして何気なく発言したのかもしれないが、私の中では大きく困惑する言葉だ。「私らしさ」って何だろう?それを決めるのは他人ではなく自分自身ではないのだろうか?そう感じるようになった。
 
言霊という考えがあるが、言葉には魂が宿っていてエネルギーを持っている。
皆そのエネルギーの重さに気づかずに、発言し他人、時には自分を傷つける。
 
自分の中にある「考え」が浮かんだ時、それを口にしたり文字にしたりするとき、他人が受け取るエネルギーの重さを考えたことがあるだろうか。私もまた、過去に友人と喧嘩したりいろいろなトラブルが起きた時心無い言葉を口にした。
「思ってもいない言葉が突発的に出た」そんな経験だ。
そのあとは、自分のエネルギーさえも奪われる。どっと疲れる。
 
そんな大きなエネルギーを持った言葉で、自分や周囲の人を傷つけ人権を侵していいのだろうか。身体的なことも、心理的なことも、その個人が自由に生きてきた証でありそれをどうするか「どうあるか」は選ぶことができる。
男性のためにメイクをするならそれがその人の「選択」で、
自分のためにメイクをするのならそれがその人の「選択」である。
 
エマワトソンが、フェミニストとして世間に認識された中であることが起きた。
エマはある雑誌の表紙で、胸元が見えそうなドレスでポーズをとった。後にそれが表紙となった。
しかし、その時世間は「フェミニストが胸を見せていいのか」とか「偽善的なフェミニストだ」などと批判された。
 

 

でもこの批判は全く持って意味がないし、フェミニストの本質を誤解している。偏ったみかたをしている。

エマ自身がどう自分の身体を表現しようが、するまいが選択するのはエマ自身である。

 

 

そしてアリアナグランデもまたフェミニストであるが、彼女が来日した際にある情報番組に出演した。曲を披露するためだ。

その時、その番組のMCの男性がある女性芸人のことを「マイケルムーアシュレックに似てるでしょ」と言い、笑いの対象としてアリアナの笑いを誘発しようとした。ごく自然に。

しかしアリアナは一切笑わず、「あなたはすごくかわいいわ」と言った。

個人の身体的特徴をピックアップし、それを笑いとして嘲笑う。こんなことがふつうであっていいのか。このまま許されていていいのだろうか。

太っているとか、不細工だとか、歯が出ているだとか。

そんな個人の特徴を笑いとして全国に放送することはおかしい。どう考えてもこれは許容されないことだ。

「それが日本の芸風だ」

そんな言葉で批判する人もいるだろうが、もはや日本の中だけで日本人だけが見るだけではない時代に、そんなことが許されていてはいけないと思う。

 

某年末番組で、過去に不倫騒動で世間を騒がせた女性タレントが「禊」と称して女性がタイキックをした。もちろんそれは「笑い」のために。

この姿をみて「笑い」を目的とされる番組の中であるからもちろん出演者は笑っていた。しかしこれはすぐに問題となった。

タイキックする人が女性だったとか

そのあと男性の出演陣もケツバットされていたとか

そんなこと言う前に、なぜ「笑い」として「不倫の禊としてタイキック」なのか。

なぜ痛がっているところを笑いにしなければいけないのか。

しかしそのタレントは「タレントとしてありがたい」と発言していた。

そういわなければ成り立たないエンターテインメントなのか、そう言わなければ生きていけない世界なのか。

「仕事のため」と言われればそうかもしれないが、ここで言いたいのはそういう現実的な問題に目を向けるのではなく「そういう笑いのあり方」を考えるべきだということだ。

「それが嫌ならバラエティをみるな」

「見ないという選択をすればいい」

そう思う人もいるだろうが、そういう問題ではなく本質の問題。

仕方ないとかいう問題でもない。

 

ポリコレ、ポリティカル・コレクトネスについても深いかかわりがあると思うが、ポリコレに関しては私は勉強中であるので割愛する。

 

違う分化、異文化の中で育ってきた人々が同じ思想になれるのかと言えば、それは簡単なことではないかもしれない。日本の文化もまた、異文化からみると不思議で理解できないこともあるだろう。

しかし、歩み寄ることはできる。

ネタだ、笑いだ、冗談だ、といって見過ごすのは終わりにしたい。

 

私はフェミニズムに出会ってから、本を読んでから、エマのスピーチを聞いてから、価値観も何もかも180度変化した。

自分がこれまで無意識にジェンダーステレオタイプ的な見方をしていたこと、

しかし考えていくとそれを顕在的な偏見だったと過去を振り返り、潜在的フェミニストであったことに気がついた。

 

 そしてフェミニズムに出会う前より、前を向いて自分らしさを自分で決めることができるようになったと感じている。

 私はもっと、男性ヒーローと同じくらい女性ヒーロー(ワンダーウーマン大好き!)も観たいし、スキンケアやメイクなどの話題で女性の友人と同じくらい男性とも盛り上がりたい。

 

 

www.huffingtonpost.jp

 

 

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おめらす