あおのユートピア

熱しやすく冷めやすいコスメフリーク大学院生のブログ

"インスタ映え"という言葉に感じる違和感と嫌悪感

 

 

 

 

みなさんこんばんは!

今日はふと考えたことがあったのでブログを書いてみます。

 

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最近、いやこの一年くらいだろうか、テレビや雑誌、ラジオなど様々なメディアで『インスタ映え』もしくは『SNS映え』という言葉を耳にするようになった。

毎日と言ってもいいほどである。朝普段見ないようなワイドショーをつけていたら、複数回は耳にするこれらの言葉。

私は写真を撮ることが普通に好きだ。オシャレなものをみれば写真として記憶に残したいと思うし、インスタグラムに素敵な写真をのせてシェアしたいとも思う。純粋にそう思っている。だけれど、なぜ私はこの「インスタ映え」にそうそう嫌気がさしているのか?なぜ少しだけその言葉を一日に何度も聞かなければならぬのかと嫌悪感を感じるのだろうか?

 

「インスタ映え」という言葉を聞いた人、使う人、話題として出す人々は二つに分かれることができると思う。

 

①フラ〇チーノを寒いのに注文していかに可愛く綺麗に撮るか、時間をかけているなんてばかばかしい。SNSにあげることを目的に食べ物を選ぶなんて食べ物を大切にしていない。なんか嫌だ。気に食わない。

 

②私はただ美しいものを撮りたくて、ただその気持ちだけで写真を撮っている。インスタグラムにあげるのはその延長線上であって、SNSに映えるかということを常に意識しているわけではない。記録としてインスタグラムに投稿している。そのように白々しい目で見られるのはとても嫌だ。

 

すごく具体的に書いてしまったけれど、これが全てではないしこんなきれいに二つにカテゴライズされる人がいるという確信もない。しかし、「インスタ映え」という言葉を聞いた時に思うことは主にこの二つなのではないだろうか。

 

どちらも最終的に行きつくのは「インスタ映え」という言葉へのマイナスイメージだ。どうしてだろう。いつから、この言葉に対して私も嫌悪感を抱くようになったのか?

 

ツイッターの検索で”インスタ映え”と入力すると...

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"インスタ映え 嫌い"という言葉が。

 

職業として世界ではインスタグラムで収入を得ている人もいるし(インスタグラマー)、純粋に写真が好きな人もいるだろう。

物の価値ではなく、いかに写真映えするかということに重きを置いて消費物を選ぶことに何故違和感を感じるのか。

 

私はこの「インスタ映え」という言葉をテレビで聞けば聞くほどに、「なぜ普通に綺麗な写真を撮りたくてインスタグラムに写真をあげているのにそれを嘲笑うように言われた気になるのだろう」と思っていた。なんだかというか、すご~~く”嫌”だった。

 

しかし、私はなぜこういう感情が私の中に渦巻いているのかを自分で考えて考えて...やっとあることに気が付いたのである。それはごく当たり前のことで、そんなこと?ということかもしれないが、私にとってはすごく腑に落ちたような、そんな感覚ですっきりしたのである。

 

インスタグラムやツイッター、FacebookやYOUTUBEなどにはいつも美しく、輝いた、素晴らしい、きれいな、完璧な、日常や幸せでいっぱいである。しかしそれは幻想にすぎない。友人のインスタグラムを観れば、海外への旅行、ハイブランドの彼氏からのプレゼント、高級ホテルでのビュッフェ、おいしそうなスイーツなど、とにかく「幸せな一瞬」がただただ延々と流れてくる。スクロールすればするほど、輝かしくまぶしい皆の日常生活が異常なほどキラキラして見える。

それにより引き起こされる孤独感や、「なぜ私はこのように幸せではないんだろう?」とか「皆は幸せそうでいいなあ。それなのに私は...」とか。そんなマイナスな感情と、劣等感でいっぱいになる。それだから心が疲弊する。いつのまにか心がすり減っている。人々が「パーフェクト」な瞬間をまるで普通の「日常」のようにアップロードしているのである。

それは日常ではない。リアルではない。幻想である。現実は違う。

YOUTUBEにあげられている世界中の「モーニングルーティーン」や「ルームツアー」は一年の365日すべてがそうではない。撮影のために綺麗にするだろうし、もしかしたら部屋のインテリアも変えるかもしれない。なぜならそれらの映像はある種ひとつの「作品」としてアップロードされるからだ。視聴者、私たちはハイクオリティな映像を求めていて、声の大きさ、メイクのうまさ、部屋の綺麗さ、話し方、そんないろいろな特徴をユーチューバーに対して無意識でも視野に入れているはずだ。できるだけ質の高い、きれいなものを見たいと思うのが人間だろう。

 

いつだったか、海外のユーチューバーたちがこぞってあげはじめたビデオがあった。それは「理想と現実」というようなものや、わかりやすいもので言えば

My real night routine」なんていうもの。つまりは、世界中のユーチューバーはお洒落でなんだか完璧な(アイフォーンのアラーム音で起きてから、可愛い部屋着に着替えてリビングでちょっとのフルーツとシリアル、ハーブティーを飲むとか)朝のルーティーンや夜であれば、学校から帰宅してメイクを丁寧に落としてから優雅にシャワーを浴びて、音楽を聴きながらSNSをチェックしてMacbookでビデオ編集、その後にBath&Bodyworksのキャンドルを焚いて、大きなベッドに入ってラップトップでネットフリックスを見るか本を読むか...みたいな。

そういったものを「mornig routine」としてあげているのだけれど、そのあとになって「本当はこんなんじゃないんだよ、現実はこうだからね」というかのように”リアルな”ビデオを作ってのせる。それをよく目にしたのである。

 

例えば、私がずっと好きで見ているアメリカのユーチューバーMeredithfosterという女性がいる。彼女は完璧なスタイルと、愛嬌のあるお顔、かわいいメイクと、欠かさないワークアウト、面白くてキュートだ。でも、彼女もまた上述したようなリアルなナイトルーティーンなんかを過去にアップしている。

 

まず”普通の”ナイトルーティーンのビデオがこちら。

www.youtube.com

 

そして続いてはリアルなナイトルーティーンのビデオはこれ。

www.youtube.com

 

 

これで分かっていただけただろうか。

他にも、

  • Expectation vs Reality
  • Youtubers vs Reality

など。さまざまな「理想と現実」的なビデオがアップされている。

 

 

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

 

つまりは、今日本で耳にしない日は無いほどの言葉「インスタ映え」は、ある意味で私たちが目にする様々なパーフェクトな写真や動画は現実ではない(というか日常ではなく特別な瞬間)ということを暗に示してくれる。

インスタ映えするように、注文したアイスを青空バックにうつるように高く上げて下からピンクがかったフィルターのアプリで写真を撮るとか、そして気が付けばアイスクリームは溶けてた...なんてストーリーもあるかもしれない。その「インスタ映え」という言葉が出来たことによって、他人のSNSなどをみたとき自分の生活と比較して劣等感や孤独感を感じて落ち込んでいる人などにとってはある意味で「裏側」が存在することを知るきっかけになるし。またそれが有名なインスタグラマーではなくても、身近な友人もそうして撮っているんだなあと思って客観的にフィードに並んだ美しい写真たちをみることができるのではないだろうか。

 

私は写真を撮るのが普通に好きで、美しい者や場所を見つけると「この角度で撮ればきれいに見えるな」とかそんなのは当たり前に浮かぶことで、その一瞬の思考にまさか「インスタ映え」なんていう言葉が付くとは思いもしていなかったひとりだ。だからこそ、テレビで”とりあえずインスタ映えって言っておけばいい”的な風潮(メディア側は意図がなくとも)に嫌気がさしていたのだろう。でも、「理想と現実」を表す言葉であるという反面を意識してから、一切のマイナス感情は抱かなくなった。

 

インスタ映え、SNS映えという言葉を聞いたり見たりするときの「モヤモヤ」は消えた。普通に美しいと思えば写真をとるし、インスタグラムにのせたいと思えばのせる。好きなフィルターを選んで、自分の好みで写真を撮ればいいしノーフィルターでもなんでもいい。自分が好きなようにすれば。

 

ただそれを、例えばマックブックで仕事をこなす場所としてスターバックスを選ぶ人々のことを意識高い系と呼ぶような「人を嘲笑うような風潮」は嫌だ。その人にはそんな意識や目的なんてないかもしれないのに、ただ見ただけで決めつける行為は嫌いだ。もしインスタ映えをそんな風に使うならば、インスタ映えのマイナスイメージは増すばかりである。

 

「はいはい、これがインスタ映えね~」

 

と言ってニヤニヤしながら言うような人がいればその時点で、インスタ映えという言葉が暗に示してくれるリアリティの部分は意味をなさない。アメリカでもたまに”Instagrammable”とか目にすることもあるが、日本ほど一部のマイナスイメージは無く使われている気がする。

 

ただ、ひとに迷惑をかけるほど危険な場所での撮影や、事件につながるようなことをしてまでも写真を撮るのは紛れもない「迷惑」である。でも、そうではなく単に私たちは写真を綺麗に撮りたくて、食べたものや買ったものを『撮りたくて撮る』という意識でいることを知ってほしい。

 

そしていまこの瞬間もアップされつづけている「完璧」で「幸せ」な写真たちはすべてがその人々の「普通の日常」ではないかもしれないことも知ってほしい。それで落ち込む必要はないし、特別な瞬間を切り取ってアップしている人がほとんどであると言いたい。

 

 

―おめらす―