あおのユートピア

熱しやすく冷めやすい心理学生の雑記ブログ

ブログ日数31日らしい

 

 

 

 

みなさんこんにちは(*^-^*)

 

ブログ日数がどうやら31日ということで、一か月ほど?たったようです。

この一か月自分の購入品のレビューや、海外コスメ、Kぽアイドルの使用・愛用コスメ、HSPフェミニズムについて書いてきました。

 

 

www.utopia-blue.com

 

 

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ブログを書くということで感じたことは、

文字を通して見えない向こう側の誰かに自分の考えや感想などを伝えることがどんなに難しいかということです。

私はこれまで、たくさんの人のブログを読んだり毎日ニュースサイトやコラムサイトをチェックしてきましたが、はじめて書き手側になって「文字」を書くことに要するエネルギーと難しさを実感しています。

と言っても、私は昔から作文や読書感想文など、何かをまとめて要点で文章にすることが大好きでした。本を読むことも好きでしたし、出会ったことのない誰かのことを文字で知る感覚も好きでした。

ですから、こうして文字で自分の伝えたいこと・お勧めしたいものを発信するということは簡単ではないけれども「楽しい」のです。私はできるだけ完璧な読みやすいブログにしたくてあれこれカスタマイズしておりますが、それもあって一記事書くのに何時間もかかっています。慣れていくものなのか分かりませんが、4月から私にとっても新生活がスタートし、これまでのような頻度で続けていけるのか謎ではあります。だけど、自分が何かを伝えたくてこのブログを作ったので私にその気持ちが消えるまで書き続けるつもりです。

 

 

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昨日はバレンタインデー。

私はそんな日こそ、自分を愛するということについて考えていた。私の大好きな防弾少年団が去年発表したアルバムタイトルに「LOVE YOURSELF」という言葉が入っていたが、己を愛するということは一言にいえても私にとってはまだまだ難しい。いつからだったか、自分にとても自信がなくてほめていただいてもいつも自己評価が低すぎるためその狭間で葛藤してジレンマを抱えていた。

 

人はたくさんのペルソナをその場に応じて使い分けている。そうでない人はいないと私は思っているが、「他者から見える自分」と「自分が思う自分」との間には多少のズレがあるのが普通だ。あくまで私はこのように考えてきた。目に見えている部分だけがその人の全てでもないし、私も大学でのわたし・家族といるときのわたし・一人でいるときのわたし...このようにたくさんの側面があって「私」というひとりの人間ができていて。

自分に自信がなさ過ぎて、自己肯定感も驚くほど低い。それと他者評価とのギャップに戸惑い、もがくことがあった。「私はそんな人間じゃないのに...」とか「私はそこまでの人ではない」などと言う風に感じてしまっていて素直に誉め言葉を受け取れない。でも、例えば大勢の前での発表やガジェット系の知識、好きな芸術のことなど、そういうことを発表したり説明するときのわたしは輝いていると思う。そういう時、私は自分が好きだ、という感覚がある。それはなぜか、「その分野に自信があるから」。

 

これまでの大学生活4年間でいろんなことがあった。とても早く過ぎ去った。私は周囲の友人のようにバイトを沢山したり、旅行したりしてこなかった。バイトをすると言っても単発でやるくらいで長期のバイトは私の性格や体調に驚くほど向いていなかった。でもそこにある種のコンプレックスを持っていた。「皆は働いているのに私は働いていない」そこに本当に大きなコンプレックスがあったのである。これは確実に言えることで四年間かたときも頭から離れたことはない。でもそのコンプレックスを隠すかのように私はとりあえず周囲より勉強した。勉強してよい評価をもらえば他者評価はそちらに目が行くのではないかという、ある逃げ道のように勉強した。時には自分の成績表を置いていて友人が見たときに一度「気持ちわる~」と言われたことがあった。これは悪意はなく、半ば笑いながらギャグのように言われたのだが私は結構傷ついた。自分が勉強してきて出した結果を人に引かれることがあるのか?と。でもそれもその人の感覚であり、私とは考えが違うだけだ。だけど、私はどうやら頑張っている人を嘲笑うような風潮を好まない。たとえばスターバックスMacbookで仕事をしている人たちのことを「意識高い系」と呼ぶことなど、私は到底理解できない。意識を高くもって何がよくないのだろう?すこし自分がかっこよく感じて自分に酔えることもあってもいいのではいか?と。そんなことをあれこれ数年考えてきて、私はもうすぐ卒業だ。

先日ある知らせを教授に聞いた。私が首席で卒業できるという話だ。実を言うと、これは夢だった、私が一年生の時からの夢でありゴールだった。だから素直にうれしくて泣きそうになった。コンプレックスを隠すように勉強した私の四年間がついに肯定されたような気がした。そこで私はあることを感じた。「そろそろ自分を褒めてやってもいいんじゃない?」と。いままで自分の頭にはふたりのわたしがいて、よく漫画などでも描かれるが天使と悪魔的なものだ。私が何かを達成しても「頑張ったじゃん!すごい」というわたしと、「上には上がいる!まだまだ全然だめだ」というわたし。後者のわたしの方が圧倒的に力がつよく、いつもその自分によって「自分で己を褒める」ことを避けてきた。しかし、今回このうれしい報告は前者の私が勝ったのだ。自分を褒めてあげよう、よく頑張ったと、自分を大切にしてあげようと。それがきっとラブマイセルフにつながるのであろう。自分を愛することは、褒めること、肯定すること。それに少しだけ近づけた気がした。

ボブ・マーリーは言った、

 

「自分の生きる人生を愛せ。自分の愛する人生を生きろ。」

 

自分の生きているこの人生を愛する、人生というもの自体を愛する。それもとても難しく、重要なことだ。

昔はよく、私は人に嫌われたくないと思って常に笑顔でまわりに気を遣って生きていた。小学生の時にあるクラスメイトに言われた言葉「八方美人」。確かにそうだ。まさにそれが私という感覚だったが、そのころから私は「自分を持って他人を笑かす」ことを覚えた。要するに自虐だ。自虐ネタで他者を笑かすことをよくした。なぜだか楽しかった、その瞬間は。だけど、これが良くないことだと数年前に気が付いたのだ。自分を大切にしていない、そもそも自虐ネタは「自分のコンプレックスを他人が気づいて言及してくるかもしれいことへの予防線であり自衛である」ということだ。人に言われるより前に自分で言ってしまえと。でも結果的に悲しくなった。私は自分で自分をいじめていたのである。プライドを高く持て、とかそういう意味ではなく、自分を愛すればおのずと自虐なんてできないだろうということだ。それからというもの、私は人に媚びずにワンマンで、そして自虐ネタからは卒業した。まわりの反応も変わった、本当に不思議だった。今まで相手に良く思われようと媚びていた自分の時と、今の私への対応がまったくちがう。まるで胡麻をするように見えていたのかもしれない。私は自分を愛する、それを一番のゴールにしてこれからも生きていく。

 

最近気づいたことは、自分を愛することがどんなに難しいかそれは人によって違うということだ。自分のことが好きだと胸を張って言える人もいれば、私のように自分をどうしても愛せないという人もいる。人と人は、同じ人間でありながら生まれた時からの養育環境や経済状況、コミュニケーション、社会での活動などによって生まれた瞬間は同じでも成長すればそれぞれ皆ちがう「個人」になる。

日常生活の中で、「あの人なんだか嫌だなあ」「私とは合わないタイプだ」「価値観が違いすぎる」と言って距離をとったり話したこともないのに決めつけたりすることがある。でもこれは上述したような「バックグラウンドの違い」にその瞬間気づくか気づかないかで大きく変わってくることだ。「その人」はあなたと同じ人間でも、ちがう「個人」である。そのことを意識しはじめてから、人を『ジャッジする』ことの危険性について考えるようになった。

 

他者を自分の価値基準でジャッジしていないか?触れたり、コミュニケーションをしていないのに「その人」もしくは「もの」を判断していないだろうか?と考えるようになって、私がいままでどんだけ人やものをそれに一つに触れずに「ジャッジ」していたことを反省した。

 

人をジャッジするのをやめよう。

 

そして、憎しみや嫌悪などそういうマイナスのかたまりみたいなものを手放すことだ。人は誰しも過去に嫌な経験をしているだろうが、それをすぐに忘れて次に進めるタイプの人間とそうでない人間がいるらしい。

 

私は後者だ。嫌なことを言われた、ショックで立ち直れないほどのことをされた、そんなとき自分は己を「被害者」だと思い込み相手を責めたり嫌いになったりする。それは同タイプの人間にとって当たり前のことで、もしかすると人間みんなそうだろう。自分にとって嫌なことをされたら、してきた人のことをマイナスに考える。

けど、それをいつまでも自分の中にため込んで蓄積させているのは良くない。どんどん心が重くなって、いつのまにか錘だらけでおも~い自分が出来上がっている。一番見にくいのは憎悪や嫌悪、中傷、暴言など世の中にあふれる人間が作り出し人間がためこむ感情・行為である。これを手放さなくてはならない。

自分にとってどうしても忘れられないほどいやな人や、自分の人生をめちゃくちゃにした人のことを忘れることはそう簡単ではないだろうが、それらも手放すことが必要だ。手放す時が来たのである。

 

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動物にはなくて人間にはある特徴として「忘れる」、つまり”忘却”がある。忘れることは手放すことに似ている。手放してそのマイナスのかたまりを忘れる、ゼロにする。そのときに初めて自分の体についていた錘がとれて軽くなる、前進できる。

忘れることはときに意識的にもできるのではないかと私は思う。忘れよう、忘れようとするともっと忘れられないかもしれない。ならば、本当に自分が楽しくてリラックスできることをしよう。するといつのまにか「手放して」いる。

私の好きな言葉でもあるが、ニーチェはこう言った。

『忘却はより良き前進を生む。』

これは全てをあらわしているだろう。忘却は前進につながり、しかもそれはプラスでエネルギーに満ちた幸福な前進である。忘れることは進むこと、手放すこと。

これに気づいた時、わたしはかなり楽になって解放されたような気分にもなった。

 

そんなことを最近考えていた。ブログ開始一か月ということでちょっと文章書いてみました。

 

―おめらす―